作成/ 2002-05-06 | 更新(7)/ 2005-02-27
ローマ字は大別すれば日本式系統とヘボン式系統に分かれる。日本式系統は日本式を祖に、国内規格(訓令式)、国際規格と発展して現在に至る。ヘボン式系統は昔日に廃止され、典拠となる標準規格は存在しない。現在ヘボン式と呼ばれるのは外務省や英語団体などが独自に定めた自家方式であり、多種多様な変化を遂げて一様ではない。
日本式は明治18(1885)年、物理学者の田中館愛橘により提唱された。そのつづり方は理路整然と五十音の体系に従い、音韻学理論の最初の結実として世界の言語学者の賛同を得たという。しかし日本式に対するヘボン式擁護者の不満と抵抗は凄まじく、これに屈してヘボン式の考え方の一部を容れ、妥協を図ったのが訓令式である。
すなわち訓令式は表音主義を標榜するため、日本式で用いる「クヮ」「グヮ」「ヂ」「ヅ」などには、それぞれ「カ」「ガ」「ジ」「ズ」を当てる。しかしヘボン式で用いる「shi(シ)」「chi(チ)」「tsu(ツ)」などの英語の発音に基づいたつづり方は認めず、それぞれ「si」「ti」「tu」で表す。ヘボン式も訓令式も表音式ローマ字の一種である点に違いはないが、前者が依拠したのは英語であり、後者が依拠したのは日本語だった。
訓令式とは、昭和5年の文部省臨時ローマ字調査会の答申を受け、昭和12年9月21日内閣訓令第三号によって公布された方式を指す。しかし先の大戦後、米国統治下でふたたびヘボン式が勃興して混乱が生じたため、昭和29年12月9日内閣訓令第一号により前の訓令を廃止、ヘボン式の使用を「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合」に制限する文言を加えた上で、新たに公布しなおした。新旧の訓令式では、長音記号(例 rōmazi → rômazi)と、分離記号(例 kon-ya → kon'ya)の採用に小異がみられるが、この方面の事情に詳しい Simizu Masayuki 氏は、旧式のそれが誤植であったことを指摘している。
日本での規格採択に敗退した米国は昭和37(1962) 年、英国と共謀してこの議論の決着を国際標準化機構(ISO)に求めた。同機構の専門委員会は米国の委員が作成した資料、すなわち、ヘボン式を第一の候補に検討を重ねた。ヘボン式はもっとも長い歴史を持ち、日本の国内外で広く普及しているが、英語の発音に依拠するために日本語の表記法としては正しくない。いっぽう後に日本の委員が提出した資料、すなわち訓令式は、普及率で劣るとはいえ日本の公的規格であり、なにより日本語の音声構造を論理的に表す。同機構は27年の議論の結果、論理性は普及率に勝ると総括、平成元(1989)年に訓令式の採択を明文化した国際基準ISO3602を承認した。
国際規格は訓令式をより厳格化した点で評価できる。たとえば、形態素の切れ目を定義したことで、母音連続と長音の境を明確に隔てた。また、長音節を表す二連字、三連字の仮名を具体的に表示したことで、長音に対する解釈の余地を斥けた。訓令式は表音式仮名遣いのローマ字表記であり、現代仮名遣いと対照させた場合はダ行などで重出が生ずる。しかし国際規格は現代仮名遣いを変換する場合には日本式を採用して、厳密な転字を妨げないようにした。
そもそも現代仮名遣いは歴史的仮名遣いから表音式仮名遣いへ移行するための暫定的な方式として導かれた。本来は仮名表記もローマ字と同じ表音式仮名遣いへ移行するはずだった。しかし昭和21年11月16日内閣告示第三十三号から40年を経ても表音式仮名遣いは支持を得られず、昭和61年7月1日内閣告示第一号によってふたたび現代仮名遣いが示された。このため、ローマ字と仮名の表記法が異なる状態がいつまでも解消しないのである。
日本式と訓令式はローマ字の方式としては同一であり、なんら違いはない。日本式ローマ字を前出の昭和61年7月1日内閣告示第一号の付表「現代語の音韻」に則ってつづることを便宜上「訓令式」と呼ぶ。訓令式が生じた理論的背景が省かれて、果実である一覧表だけが流布したから、音韻体系である日本式と、表記法である現代仮名遣い(漢字仮名表記)および表音式仮名遣い(ローマ字表記)の関係が十分に理解されなかった。「づ」と「ず」がともに「zu」ではおかしいではないかという類いの批判は、表記法に対する認識不足が背景にある。
現在、一般に日本式系統では国際規格の諸定義も上書きして捉えるのが普通である。
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